赤貧洗うがごとき 田中正造ドキュメンタリー

田中正造2

あらすじ

足尾山地を源とし、その恵を受け農業と漁業が盛んであった渡良瀬川は、流されてくる鉱毒で魚は死に絶え農作物は枯れていった。被害民たちの中心にあり、足尾銅山の操業停止運動を指導したのは自らを「下野の百姓なり」と言う田中正造であった。

足尾の産銅量は日本一になっていた。国会が開設され、議員となった田中正造は枯れた竹や農作物を示し鉱毒被害の凄まじさを訴え鉱業停止を訴え続けた。『亡国にいたるを知らざればこれすなわち亡国』国会を震わせる正造の演説は農民たちを立ち上がらせる。

官僚天国となる日本の基礎を築いた山県有朋は日露戦争をみすえ増税案を通過させようとした。その見返りとして議員歳費を二倍半も引き上げる法案を可決した。正造は全額受け取りを辞退、民衆とともに戦うことをあらためて決意する。民衆の戦いは更に激しくなっていった。正造は鉱業停止を求めて、死を覚悟で天皇直訴を決行した。その挙を報じた新聞により、鉱毒問題は広がった。鉱毒被害視察団がつくられ、学生や有為の若者が多く参加した。そして被害地の女性たちの行動も広がっていった。

政府は、渡良瀬川流域を貯水池にし、その流域の村々を水没させることで鉱害問題の決着を図ろうとした。その中で、利島・川辺村では多数の村民が立ち上がり、「兵役・納税の義務の返上」を掲げた闘いを展開し、見事勝利する。しかし谷中村はさまざまな策略を持って廃村させられていく。

国民の目を侵略戦争へ向ける政府に対して、正造は「陸海軍を全廃し軍事費を教育に使え」と訴え続ける。谷中村を離れた村民たちは、北海道などで過酷な生活を強いられ、あくまで谷中村に残る農民たちには洪水が襲い掛かる。正造はその谷中村民の魂にうたれ、関東一円の河川の調査を行い、精密な地図を作り政府の政策を痛烈に批判した。『真の文明は、山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし』現在をも射抜く正造の言葉、そしてこの言葉に籠められた正造の生きざまが、今の世に語りかける。

正造1

田中正造とは・・・

1841年12月15日(天保12年11月3日)-1913年9月4日)明治の政治家。元衆議院議員。当選7回。足尾銅山鉱毒事件の運動で有名。幼名、兼三郎。

1841年11月3日
下野国安蘇郡小中村(現栃木県佐野市小中町)に生まれる
1857年
17歳で小中村六角家知行所の名主に公選される
1863年
大沢カツと結婚
この頃六角家の知行地では、これまでの慣例を無視した人事支配や、一方的な年貢の引き上げなどの横暴がまかり通っていた、正造は名主として先頭に立ち用人の更迭を要求するなど改革運動を始める
1868年
六角家改革事件により投獄される
1870年
江刺県花輪支庁(現在の秋田県鹿角市)の役人となった
1871年
上司の江刺県権大属 木村新八郎殺害の容疑者として逮捕され入獄する
1874年
嫌疑が晴れ釈放 小中村に戻る
1878年
栃木県第4大区3小区区会議員に選ばれる
1879年
自由民権思想の普及を目的にした栃木新聞(現在の下野新聞)を再刊させ編集長となる
1880年
栃木県会議員に当選、以後4回連続当選
1882年
4月、立憲改進党が結党されると、その年の12月に入党
1884年
栃木県令三島道庸の圧政に反対、加波山事件に関係したとして入獄する
1886年
栃木県会議長となる
1890年
第1回衆議院議員総選挙に当選する、以後6回連続当選
1891年
第2回衆議院議会にて初めて「足尾銅山鉱毒の儀につき質問書」を出す
1896年
渡良瀬川大洪水
鉱毒水が広がり被害民とともに足尾銅山鉱業停止運動を開始。議会で鉱毒事件について、繰り返し政府に質問する
1899年
議員歳費値上げ案反対演説をし、歳費を辞退
1900年
被害民第4回大挙押出し(請願)の途中、川俣事件起きる。正造は国会で事件に関する質問を行った。「院議を無視し被害民を毒殺しその請願者を撲殺する儀につき質問書」と有名な「亡国に至るを知らざれば之れ即ち亡国の儀につき質問書」である。演説の途中で当時所属していた憲政本党を離党した。この年、川俣事件公判の傍聴中、検事論告に憤慨してあくびをしたところ、態度が悪いとして官吏侮辱罪に問われ、裁判にかけられた
1901年
この年の10月、正造は議員を辞職し、12月10日に足尾鉱毒事件について明治天皇に直訴した。
1902年
川俣事件公判の際にあくびをした官吏侮辱罪で入獄
1903年
栃木県の谷中村が貯水池になる案が浮上
1904年
遊水地化反対運動に励み、実質的に谷中村に住むようになる
1905年
谷中村村民の第1回集団移住が始まる
1906年
新紀元社の例会、その他で谷中村事件を訴える
谷中村議会は藤岡町への合併案を否決、栃木県は、谷中村は藤岡町へ合併したと発表
谷中村は強制廃村となるが、正造はその後も谷中村に住み続けた
1907年
政府は土地収用法の適用を発表、谷中村残留民家強制破壊を受ける
1908年
政府は谷中村全域を河川地域に指定
1909 年
渡良瀬川改修工事計画が出される、正造は「被害破道に関する質問書」を書き、友人島田三郎議員らの名前で衆議院に出す
1910年
関東大洪水。正造は政府の治水政策を正すため関東各地の河川を実地に調べる
1911年
旧谷中村村民の北海道常呂郡への移住が開始された
1913年
7月古い支援者らへの挨拶まわりに出かける(運動資金援助を求める旅だったともされる)その途中の8月2日、足利郡吾妻村下羽田(現在の佐野市下羽田町)の支援者庭田源八宅を訪ねるが留守のため隣の清四郎宅を訪ね、そこで倒れる
9月4日に同所で客死した
田中正造73歳 下野新聞によれば、死因は胃ガン
財産はすべて鉱毒反対運動などに使い果たし、死んだときは無一文だったという。死亡時の全財産は合切袋1つで、中身は日記3冊、河川調査の草稿と新約聖書、矢立と川海苔の壜、帝国憲法とマタイ伝、小石3個であった。

 

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